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	<title>映画館主義映画＋０ | 映画館主義 &#187;</title>
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	<description>全国の映画館主”シネマのソムリエ”と作るウェブマガジン</description>
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		<title>【輸入版DVDのススメ】ダルジャン・オミルバエフ “Deux films de Kairat ＆ Kardiogramma”</title>
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		<pubDate>Sun, 23 Aug 2009 07:32:51 +0000</pubDate>
		<dc:creator>editer</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画＋０]]></category>

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		<description><![CDATA[信じられないほど面白いのにスクリーンにかからない作品、世界的に注目されているのに日本ではあまり紹介されない作家——川口敦子による、未知を求める人のためのDVDガイド。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h4>二本立てDVDでオミルバエフの夢と現に浸る</h4>
<p>　ヴェネチア、カンヌで注目を集め、NHKが出資した『ザ・ロード』（01）もあるのに日本では紹介も評価もまだまだ充分とはいえないカザフスタン出身の監督ダルジャン・オミルバエフ。昨年の東京フィルメックスで上映された新作『ショーガ』ではトルストイの大作「アンナ・カレーニナ」を原作にしながらミニマリストの底力をみせつけた。</p>
<p>　ヒロインの自殺のようにプロット上の決定的な瞬間さえさらりと視界の外に置くオミルバエフの新作は、しんと降る雪のかそけさにも似た静謐と、ぽっかりと明るい寂しさを湛えた詩的時空を差し出して部屋を、無表情の顔を、都市の遠景を、ぽそりぽそりと切りとっていく。そんな一作は釣り糸の浮きが微かに上下する様を少し唐突に捉えて幕を上げる。少年の顔（監督の分身的役割を担う映画青年トレゲン役ジャスラン・アッサオフ自身の少年時代）がそれに続く。意識と無意識、記憶と忘却の境界を思わせる水面。そこでなされるささやかな浮沈の運動が終幕で繰り返されトレゲンの夢の景色であったことが明かされる。水面を上下する浮きの感触と現実と地続きのような夢の肌触りとが結ばれて全編を貫き、ヒロインの恋の物語をやんわりと脇に追いやる真の主題が浮上している。照応。共鳴。夢の余韻。瞬き。明滅。残響然としたもの。そうしたものにこそ縁取られ自身が自身の過去と対峙し続ける人の生の時間――。<a href="http://www.eigakanshugi.com/wp-content/uploads/2009/08/omirbaev3.jpg"><img src="http://www.eigakanshugi.com/wp-content/uploads/2009/08/omirbaev3.jpg" alt="omirbaev3" title="omirbaev3" width="230" height="149" class="alignright size-full wp-image-2463" /></a></p>
<p>　圧倒的に簡素な映画は、世界に在ることの美しさを瞬時に伝え、言葉にならない微動の感触こそが筋を超えるスリリングな物語となっていく。それは先の釣竿の少年――幼い日のジャスラン・アッサオフが実名で監督のパーソナルな経験を請け負い主演した長編第二作『カルディオグラム』（95年　第8回東京国際映画祭でも上映）をも手繰り寄せ、オミルバエフの映画をひとつの長い夢として見続ける体験としてみせる。</p>
<p>　「愛されすぎて」心臓を病むカザフの子どもジャスランが治療のため父母と離れロシア語しか通じない児童サナトリウムで送る日々。異文化の中で窃視者的位置に置かれる少年は不安と孤独のいっぽうで、憧れの医務室の先生がシャワーに入る様を覗きみるために使えない筈のロシア語を操りガキ大将をけむにまいたりもしてしまう。涼しい眼をして仏頂面を手放さない少年の必死がうっすらとしたユーモアを彼の異郷の日々に添える。そんな少年がうつぶせに眠る姿を印象的に反復する監督は早くも現実と夢の境のなさ、知らん顔した往還をそのスタイルとして選びとっている。あるいはタイトルバックに微かに響く心地よさそうな寝息。『ショーガ』の浮きの感触同様、それが世界を支配する震えとして意識の水面の上下を睨んで研いだ監督の眼差しと興味を鮮やかに指し示す。</p>
<p>　<a href="http://www.eigakanshugi.com/wp-content/uploads/2009/08/omirbaev2.jpg"><img src="http://www.eigakanshugi.com/wp-content/uploads/2009/08/omirbaev2.jpg" alt="omirbaev2" title="omirbaev2" width="230" height="150" class="alignleft size-full wp-image-2464" /></a>かのドグマ95の“貞潔の誓い”と同じ年に放たれた映画は既に３年前の長編デビュー作『KAIRAT』以来、徹底している音源の確かでない音楽は流さないとのルールに則って様式性を究めていく。が、いっぽうでは現実と夢の自在な混濁を解き放ち療養所での少年の窃視者としての位置をついには現実と夢、その相互の間にも敷衍して奇妙な奥行きを生んでいく。ありふれた少年の成長の物語をそうした様式性に掬いとり禁欲的に輝かせる監督の可能性の芽はデビュー作でも確認できる。</p>
<p>　大学入試で不正のぬれぎぬを着せられたた青年の浪人時代、苦い初恋をみつめる映画は冒頭、故郷を離れる列車の窓辺にいる主人公を写し出す。彼の視界が車窓の切りとる景色と重なる。そこに走る列車を目で追う少年時代の彼の図が突き合わされる。と、飛び込む礫が窓を割る。あたかも窓辺の青年に少年時代の彼自身が挑みかかるように。過去が現在と向きあうことを要請するかのように――。そうやってあっさりと優雅に自省的空間を映画の構図にしてみせるオミルバエフ。そうしてここにもあるうつぶせの寝姿。夢の浮力と重力の狭間、現実と意識下の往還の時空。繰り返せば長いひとつの夢とみえるオミルバエフの映画たち。日本での連続上映を待望しつつまずは監督の世界の始まりの時を最初期作二本立て輸入ｄｖｄで垣間見てみるのはどうだろう。</p>
<blockquote><p><a href="http://www.eigakanshugi.com/wp-content/uploads/2009/08/omirbaev_main1.jpg"><img src="http://www.eigakanshugi.com/wp-content/uploads/2009/08/omirbaev_main1.jpg" alt="omirbaev_main" title="omirbaev_main" width="100" height="141" class="alignright size-full wp-image-2467" /></a><br />
<h5>“Deux films de Darejan Omirbaev Kairat ＆ Kardiogramma”</h5>
<p>収録作品：『KAIRAT』（1992／ロカルノ国際映画祭新人賞受賞）<br />
『カルディオグラム』（1995）<br />
メーカー：Doriane Films<br />
英仏字幕つき　150分<br />
<a href="http://www.dorianefilms.com/doriane_fiche.php/omirbaev_kardiogramma-kairat.html">メーカーHPの作品紹介ページ（仏語）</a></p></blockquote>
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		<title>【マイ・フェイバリット・カット】第３回：松江哲明『デコトラ★ギャル奈美』</title>
		<link>http://www.eigakanshugi.com/535</link>
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		<pubDate>Wed, 28 Jan 2009 11:55:03 +0000</pubDate>
		<dc:creator>editer</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画＋０]]></category>

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		<description><![CDATA[気鋭の作り手・書き手が偏愛する映画の最愛の場面を語り尽くすこのコーナー。ドキュメンタリー監督・松江哲明のそれは、デコトラという過剰な装飾がファンタジーにまで昇華される『デコトラ★ギャル奈美』のラスト！]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img title="デコトラ★ギャル奈美" src="http://www.eigakanshugi.com/wp-content/uploads/2009/01/deco_l1.jpg" alt="デコトラ★ギャル奈美" width="570" /></p>
<p>　マイ・フェイバリット・カットはラストカットが多い。映画のテーマがビシッと決まってその画に集約されるような、出来れば高揚感があったりなんかして、思い出す度にニヤニヤしてしまう…。例えば『悪魔のいけにえ２』のチェインソーダンスとか、『キッズ・リターン』の「バカヤローまだ始まっちゃいねぇよ」とか、『ポリス・ストーリー／香港国際警察』のジャッキーの絶叫とか。最近だと『デコトラ・ギャル奈美』。ジャケットを見るとデコトラの前でヤンキー座りをしたAV女優吉沢明歩ことアッキーが睨みを効かせてせる。ほとんどの女子だったらビビって手にしないようなオサレからかけ離れたビジュアルだけど、僕は昨年最も泣かされた「映画」。きっとビデオ屋さんでもAVのノレン近くにあるエロVシネコーナーにちょこんと置かれる「だけ」に違いないし、「ドン・キホーテ」なんかでは暴走族ドキュメンタリーと一緒に並べられる可能性もある。けど僕はエッチに興味津々な童貞男子にだって、「なんかタリィしぃ～」なんて狭い店内を歩くヤンキーカップルにだって「届く」と確信出来る。</p>
<p>　物語はかなりベタ。伝説のトラッカーを父に持つ「べらんめぇ」口調のアッキーと、彼女に惚れる幼なじみの恋物語。カウボーイハットのライバルトラッカー軍団との「どっちが早く荷物を届けられるか勝負だぁー」なんて追っかけっこをしてたら「貴様らまぁてぇー」なんてパトカーで警察官がおっかけて来て、クラッシュ、「どっかーん」なんて漫画（というか漫画を超えた名作「トラック野郎」）みたいな展開もある。はい、さっきも書いたようにベタなんです。けどそれさえ仕掛けだってことはラストに近づくにつれて分かってくる。ベタや低予算さえ武器にしてしまう演出をナメてはいけない。物語にはトラッカーたちを相手にする流れの娼婦、桃香が加わるのだが彼女の設定がいい。「アイアイサー」が口癖でアッキーからは「うぜえんだよ」なんて怒られてばかりなのだが、彼女には今は離れている子供と一緒に暮らしたいという目標がある。「まじめに生きたい！」という桃香の為にぶつくさ言いながら手伝うアッキーが可愛らしい。しかし、最近の邦画同様、難病という山場が桃香を襲う。</p>
<p>　ありふれたドラマならばここで涙しておしまい…となるんだろうが、本作には「その後」が描かれる。死を受け入れ、残された人はどう生きるべきか。仇を取るべきか、明日に向かって走るべきか、終わらない日常を消化するべきか。否、セックスをするのだ。抱き合い、快感に身を委ね、生と性を実感する。僕はエロというジャンルだからこそ成立し得る、ステキな展開に涙した。僕は昨年、祖母と父と友人を亡くした。立て続けの死に「なんなのさ」とぼやく暇さえなかった。そんな時に無心になれたのが性だった。思えばオナニーばかりしていた。セックスもした。逃げ、とは思わない。それしかなかったのだから仕方ない。</p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-845" title="デコトラ★ギャル奈美" src="http://www.eigakanshugi.com/wp-content/uploads/2009/01/deco_l2.jpg" alt="デコトラ★ギャル奈美" width="200" height="283" />　しかし本作はさらに劇映画、つまりはフィクションならではのサプライズが待っている。デコトラという過剰な装飾がファンタジーにまで昇華され、奇跡が映し出されるのだ。低予算、ベタ、エロス、童謡、が「どうだ」と一気に押し寄せるラスト。その時「ざけんじゃねぇよ」とツッパっていたヒロインが遂に微笑む。僕は本作を見て以来「キラキラ光る、夜空の星よ」を聞くとアッキーの笑顔を思い出す。ふいに町中で聞いたりするとヤバい。涙腺が刺激されるのだ。過剰なのか分かってる。アホじゃねぇの、とも思う。けどアホになっちゃったんだもの、あのラストを観てからは。</p>
<p>　こんな思い入れしかない文章であなたが「デコトラ・ギャル奈美」を探してくれるかは分からないけど、08年はずっと「奈美、奈美」と言い続けて来た。 だって僕にはそれだけ大切な作品なのに、今もビデオ屋で埋もれたままだから。</p>
<p>　メジャーでもインディーでもいい作品はたくさんあるし、僕だって好きだ。けど生涯に残る一本は「みんながいいよ」と言うものにしたくない。今でしか言えない、書けない、推せない作品はきっとあるはず。そういう作品との出会いを求める飢餓感みたいなものはなくしたくない。</p>
<p>『デコトラ・ギャル奈美』はそんな気持ちを再確認させてくれた。</p>
<blockquote>
<h5><em>『デコトラ★ギャル奈美』</em></h5>
<p>2008年日本／監督・脚本：城定秀夫／出演：吉沢明歩、今野梨乃、吉岡睦雄、松浦祐也、中村英児、なかみつせいじ、森羅万象、ホリケン。、稲葉凌一、野上正義／GPミュージアムソフトより3990円で販売</p></blockquote>
]]></content:encoded>
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		<title>【映画館主は二度ベルを鳴らす】第２回：『イントゥ・ザ・ワイルド』</title>
		<link>http://www.eigakanshugi.com/540</link>
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		<pubDate>Wed, 17 Dec 2008 12:01:04 +0000</pubDate>
		<dc:creator>editer</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画＋０]]></category>

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		<description><![CDATA[全国の映画館主・支配人による、忘れられない１本をめぐるリレーエッセイ。第２回は、岩本一貴支配人のイチオシ作品を明確に打ち出している情報発信型のミニシアター・福山のシネマモード1/2から。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img title="イントゥ・ザ・ワイルド" src="http://www.eigakanshugi.com/wp-content/uploads/2008/12/into_l1.jpg" alt="イントゥ・ザ・ワイルド" width="570" /></p>
<p>　今、当館が目指しているのは、私が「この作品オススメ！」と言えば、シネコンでは上映しないような小規模公開の作品でも、採算が取れるだけのお客さんが来てくれる状態です。</p>
<p>　シネコンがどんどんミニシアター系作品を取り込んでいる現状では、かつての『アメリ』や『ピンポン』のようなミニシアター発のヒット作が生まれることはなくなりました。『ぐるりのこと。』や『歩いても歩いても』のような手堅い作品もありますが、屋台骨になるほどの本数はありません。そのような状況下では、劇場独自のヒット作を生み出す情報発信力が不可欠だと考えています。</p>
<p>　そこで当館では、08年3月より私のオススメ作品を明確に打ち出した告知を始めました。これまでにオススメ作品として上映したのは『ダージリン急行』『やわらかい手』『シークレット・サンシャイン』など。</p>
<p>　先日（12/6）、封切った『イントゥ・ザ・ワイルド』もその一本で、1992年にアラスカの荒野で餓死しているところを発見されたクリス・マッカンドレスという名の青年を描いたショーン・ペン監督作品です。</p>
<p>　父親の母に対する暴力や、両親の嘘によって、傷つきながら成長したクリスは、孤独を愛する繊細な青年に成長し、大学卒業後は放浪の旅に出ます。旅の中で、アウトサイダーたちや孤独な老人と交流をもった後、ついに憧れのアラスカの荒野にたどりつく。荒野で、たった一人の最期の日々。そこで彼が発見した人生の真理は“幸福とは、それを分け合う人がいてこそなんだ”ということ。しかし、あやまって有毒性の植物を食べてしまい、衰弱してゆく彼はもう“幸福を分け合う人”に出会うべく社会に戻ることはできない。大変、皮肉で理不尽な物語です。</p>
<p>　しかし、ショーン・ペン監督は、ささやかだけれども確かな“救い”をラストに用意しています。</p>
<p>　私は、オススメ作品に関しては、ポップ、PR紙、ブログ、メール配信等で、なるべく私自身の肉声を届けています。けれども、告知でネタバラシをするわけにはいかない。そこで、オススメ作品の上映後に“この作品のどんなところに魅力を感じたのか”を5分ほどお話しします。解説というレベルではありませんが、セリフや映像などのディテールから監督の意図を能動的に読み取り、より深く映画を味わう楽しさを広めることが狙いです。</p>
<p>　幸いなことに『イントゥ・ザ・ワイルド』は、私の予想より少し多めの集客でスタートしました。</p>
<p>　さて、この連載のサブタイトルは“館主人生で忘れられない、あの一本。”ですが、過去を振り返っている余裕がないので、今、上映している作品の話になってしまいました。ご容赦ください。</p>
<blockquote>
<h5><em>『イントゥ・ザ・ワイルド』</em></h5>
<p>2007年アメリカ／監督・脚本：ショーン・ペン／原作：ジョン・クラカワー「荒野へ」／出演：エミール・ハーシュ、ハル・ホルブルック、キャサリン・キーナー、ウィリアム・ハート、ヴィンス・ボーン<br />
全国にて公開中　公式サイト　<a href="http://intothewild.jp/" target="_blank">http://intothewild.jp/</a><br />
(C)MMVII by RIVER ROAD ENTERTAINMENT, LLC and PARAMOUNT VANTAGE,A Division of PARAMOUNT PICTURES CORPORATION. All Rights Reserved.</p>
<p>シネマモード1/2……シネマモード1（190席）2（50席）の2スクリーン。福山市の映画館は、ここ4年で7スクリーンから24スクリーンに急増している。その中に埋没しない映画館づくりを模索中。公式サイト<a href="http://www.furec.jp" target="_blank">http://www.furec.jp</a></p>
<p>支配人　岩本一貴……1967年生まれ。18歳で観た『ストレンジャー・ザン・パラダイス』にヤラれて以後、観るのも上映するのもミニシアター作品中心の日々。最近はそうれもどうかと思い、クラシック作品などに視野を広げている。映画検定試験2級（主催：キネマ旬報社）を取得。</p></blockquote>
]]></content:encoded>
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		<title>【マイ・フェイバリット・カット】第２回：大久保清朗『サウンド・オブ・ミュージック』</title>
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		<comments>http://www.eigakanshugi.com/537#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 17 Nov 2008 11:58:26 +0000</pubDate>
		<dc:creator>editer</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画＋０]]></category>

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		<description><![CDATA[気鋭の作り手・書き手が偏愛する映画の最愛の場面を語り尽くすこのコーナー。『サウンド・オブ・ミュージック』の中でもっとも衝撃的な瞬間は、有名な歌のシーンではなく、とある沈黙の中に出現する！？]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img class="alignleft size-full wp-image-863" title="サウンド・オブ・ミュージック" src="http://www.eigakanshugi.com/wp-content/uploads/2008/11/soundofmusic.jpg" alt="サウンド・オブ・ミュージック" width="209" height="300" />　マリア（ジュリー・アンドリュース）の寝室に、雷鳴におびえるトラップ家の子供たちが逃げこんでくる。修道院から赴任してきたばかりのこの若い家庭教師は、彼らに優しく語りかける。何でも好きなことを思い浮かべてみて。脚本家アーネスト・レーマンによって「ひとりぼっちの山羊飼い」の代わりに差しかえられた「私のお気に入り」は、名曲ぞろいの『サウンド・オブ・ミュージック』のなかで、マリアがはじめて誰かのために歌う重要なナンバーだ。だがそれだけでなく全編をとおしてもっとも衝撃的瞬間が待ち受けている。</p>
<p>　衝撃的瞬間とは、マリアと子供たちがすっかり打ち解けたとき、父親のトラップ大佐（クリストファー・プラマー）がいきなり現れるところだ。この「いきなり」の凄さ。アンドリュースの動きにあわせて揺れ動いていたカメラが彼を視界にとらえたとたん、つんのめるようにして動きを止める。彼は動くことを知らない。いや、動きを拒む彼の体によって画面から運動が奪われてしまった、というべきなのか。瞬間移動でもしたかのような彼の神出鬼没さは、本作の監督ロバート・ワイズのＳＦ映画『地球の静止する日』の宇宙人に比肩する。あるいは犯罪映画『拳銃の報酬』における、ハリー・ベラフォンテとその娘の乗る回転木馬のかたわらでひっそりと佇み、彼の貴重な安逸を妨げる2人組のギャングのそれを彷彿とさせる。いずれにせよ大佐のかたくなに鎖された心は、プラマーの硬ばった物腰によって印象づけられる。</p>
<p>　だが、真の驚きは歌が止まってしまうことだ。いったいミュージカルでかくも突然に、かくも残酷に歌声が奪われたためしがあっただろうか。ＭＧＭ黄金期のミュージカル（たとえば『若草の頃』）がそうであるように、歌は「終点までまっしぐら」（「トロリー・ソング」）が鉄則のはずだ。そして、歌は不可能を可能にする。歌さえ口ずさめば、どしゃ降りの雨の夜でさえ虹色のステップを踏めてしまう。まちがっても灰色の現実に引き戻されてしまうなどありえない。マリアが「私のお気に入り」を辛うじて歌い終えるのは、結局、大佐が退室した後のことである。</p>
<p>　だがこの沈黙（というか失声）が鮮やかに転換するときが来る。しばらく屋敷を留守にしていた大佐が、ウィーンから男爵夫人と友人マックスをつれて帰ってくる。カーテンの布地でつくった遊び着を身にまとい、無邪気に遊びまわる子供たちに大佐は激怒する。だがマリアを解雇しようとする彼は、屋敷から聞こえてくる歌声に気づく。男爵夫人とマックスを歓迎するために、彼らがマリアと稽古してきた「サウンド・オブ・ミュージック」。その清冽な調べに聴きいる大佐は、またも子供たちを不意撃ちする。しかしどうだろう。動くこと知らなかった大佐＝プラマーの体が、彼らにゆっくりと吸いよせられていくではないか。そのゆったりとした、それだけに揺るぎないその動作が、大佐のなかで何かが息を吹き返したことを静かに告げている。いったん堰きとめられた子供たちの澄んだ声が、プラマーの低音に流れこんでいく。大佐が子供たちと和解し、マリアと恋に落ちることになるのはもはや時間の問題である。</p>
<p>　しかしやがてその大佐自身が失声に陥るときが来る。ザルツブルク音楽祭のクライマックスがそれだ。誇り高きオーストリア人としてナチスへの協力を断固撥ねつけつづける大佐は、ついに海軍基地に強制的に連行されることになる。夜陰に乗じての逃避行もあえなく失敗し窮地に立たされるトラップ一家。だが音楽祭の主催者であるマックスの機転により、一家は出演者として参加し一刻の猶予を得る。しかし音楽祭はナチスの高官たちが特等席を占め、会場は厳重な警備網がしかれている。そのなかで彼は一人で舞台に立つ。歌うのはロジャース＆ハマースタインによる最後の曲「エーデルワイス」。彼に射すスポットライトの光芒が、大佐の孤立ぶりをくっきりと浮かび上がらせる。ところどころで垣間見えていたナチスの脅威が、今や暗闇となって画面を覆いつくしている。そのときプラマーの声が思わず嗄（かす）れてしまう。闇の魔手が白い花を握りつぶすように、大佐を絞め殺そうとしているかのようだ。大佐の嗄れ声のうちにオーストリア併合という歴史的事実がこれ以上ない簡潔さで表現しつくされている。</p>
<p>　そのとき、今や伴侶となったマリア＝アンドリュースがそっと彼に近づいてくる。扼殺されかかった歌を救いだすために。「我が祖国よ永遠なれ」の合唱が、大きなうねりとなって聴衆全体を呑み込んでいく。そのとき「歌が不可能を可能にする」という、それ自体としては荒唐無稽なミュージカルの掟が、音楽の調べ（サウンド・オブ・ミュージック、ということはこの映画そのもの）を切なる祈りへと変貌させる。その祈りに助けられながら、かつて動くことを知らなかった大佐が一家を率いて越境を果たすフィナーレはもうすぐそこまで来ている。</p>
<blockquote>
<h5><em>『サウンド・オブ・ミュージック』</em></h5>
<p>The Sound of Music／1965年アメリカ／監督：ロバート・ワイズ／脚本：アーネスト・レーマン／出演：ジュリー・アンドリュース、クリストファー・プラマー、エリノア・パーカー／20世紀フォックスホームエンターテイメントより1890円で販売</p></blockquote>
]]></content:encoded>
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		<item>
		<title>【マイ・フェイバリット・カット】第１回：北小路隆志『未知との遭遇』</title>
		<link>http://www.eigakanshugi.com/530</link>
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		<pubDate>Fri, 10 Oct 2008 11:49:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator>editer</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画＋０]]></category>

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		<description><![CDATA[気鋭の作り手・書き手が偏愛する映画の最愛の場面を語り尽くすこのコーナー。『未知との遭遇』のマザーシップ降臨に、なぜ僕ら観客はこうも恍惚としてしまうのか？]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img class="alignleft size-full wp-image-740" title="未知との遭遇" src="http://www.eigakanshugi.com/wp-content/uploads/2008/10/michi_sougu.jpg" alt="未知との遭遇" width="215" height="300" />　たとえば彼の実質的デビュー作『激突』についていえば、荒野を縦断するハイウェイに出現する巨大トラックが主人公の車を追い回す内に次第に凶暴さをあらわにするなか、スピルバーグの演出の妙はそのトラックの運転手をついに一度たりとも画面に映し出されずにおく点にあるとされた。あるいは『ジョーズ』にしても、その魅力は人食い巨大鮫をぎりぎりの時点まで可視化することなく物語を推移させる監督の手腕にあるのだ……と。 そうした論者にとってスピルバーグの堕落（？）は、『未知との遭遇』のエンディングでエイリアンを画面に登場させたことに始まる。全編にわたって”醜悪な” エイリアンが子供と戯れる『ＥＴ』ともなれば何をかいわんや……ということだろう。思うにこうした批評の根拠は、過度に可視性に依存することのない繊細な演出で特徴づけられる古典的映画が諸々の理由から崩壊し、あらゆるものを可視化せずにおかない映像のインフレーション状態が映画の定型を破壊した……との、それ自体はおそらく正確な映画史の分水嶺を巡る認識にある。当初、古典的映画の擁護者にとっても将来有望な若者と見られたスピルバーグが、その期待を裏切り、あらゆるものの可視化を押し進める陣営の急先鋒となったと批判されたのだ。</p>
<p>　だけど本当にそうなのか？　なるほど『未知との遭遇』で目まぐるしく飛び交うＵＦＯ群は当時の特殊効果技術の先端だったし、そのイメージの新奇さに僕らが興奮していた事実を否定するつもりもない。だけど僕にとってスピルバーグ作品の魅力は、それが可視化されようが不可視のままであろうが、何かを一心に見つめ、魅入られる存在への共感の眼差しにこそある。鮫が見えようが見えまいが『ジョーズ』の登場人物らは一様に海を見つめる姿勢をとり、また皮肉にも全てが見えてしまう全面可視化の苦行に晒された『マイノリティ・リポート』の予見者たちはその眼差しの先に見たくもない何かを見てしまう。むろんそこで何が見えるかが物語の鍵を握るとしても、それはたかだか操作可能なただの映像にすぎず、僕らはその何かを見てしまう存在の瞳のあり方に魅入られるのだ。</p>
<p>　何かを見る存在に憑かれた映画作家としてのスピルバーグ……。それが何を意味するかについて、問題の（？）『未知との遭遇』ラスト近くでのマザーシップ降臨の場面を例に考えてみよう。</p>
<p>　辺りが暗闇に包まれる頃、巨大な岩山の麓に設けられた施設で関係者一同がまるでショーの開幕を前にするかのような風情で興奮を抑えきれずに待ち受けるなか、ついにＵＦＯが不可視の領域を突き破り次々と飛来する。歓声やどよめき、湧き起こる拍手。そして真打ち登場とばかりに誰しも想像だにしなかった巨大なマザーシップの降臨……。繰り返すが、ここで可視化される未知なるものが僕らの驚きを誘ったのは確かだ。だけど僕らがこの場面に感動したのは、そこで可視化される映像の輝きゆえだけではない。そうではなく、眩いばかりの光の横溢に魅了され、ほとんど恍惚状態に陥るかのような顔の数々にむしろ僕らは胸をときめかしたのだ。こうして、何かを一心に見つめ、それに魅入られる存在とは、要するに映画を見る観客ではないか……と僕らは気づかされる。たまたまＵＦＯに遭遇して以降、半ば正気を失ったかのように”見ること”に憑かれた主人公も含め、それぞれ全く別の環境で暮らす彼／彼女らはやがて訪れるであろう光の顕現を信じる姿勢においてのみ共通点を持ち、どこか秘密結社めいたシンジケートを形成しつつ共に光に魅入られる……。だから『未知との遭遇』は、できれば映画館の大きなスクリーンを前に見ず知らずの人たちとの間で結成され、映画が終われば無言でそれぞれ家路につく２時間だけの共同体のも とで見ることが望ましい。スピルバーグは見ることを介して束の間だけ形成される映画観客の共同性を称える映画作家なのだ。</p>
<blockquote>
<h5><em>『未知との遭遇』</em></h5>
<p>1977年アメリカ／監督・脚本：スティーブン・スピルバーグ／出演：リチャード・ドレイファス、フランソワ・トリュフォー、テリー・ガー</p></blockquote>
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		<title>【映画館主は二度ベルを鳴らす】第１回：『いつか読書する日』</title>
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		<pubDate>Thu, 27 Dec 2007 12:07:02 +0000</pubDate>
		<dc:creator>editer</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画＋０]]></category>

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		<description><![CDATA[大分のミニシアター・シネマ５の田井肇が『いつか読書する日』に託した夢とは。全国の映画館主・支配人による、忘れられない１本をめぐるリレーエッセイ。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img title="いつか読書する日" src="http://www.eigakanshugi.com/wp-content/uploads/2007/12/dokusyo_l1.jpg" alt="いつか読書する日" width="570" /></p>
<p>　『いつか読書する日』（2005 年）は、地方都市で牛乳配達をして暮らす、五十路にさしかかろうかというある女性の物語である。演じるのは田中裕子だ。朝まだ暗い中、牛乳を積んだ自転車を走らせ、坂道を駆け抜け、何十段もの階段を駆け上って牛乳を配達する。そして昼はスーバーでレジ打ちをし、疲れ果てて家に戻り、夜の寝床で本を開き、いつの間にか眠りにつく。主人公は、そんな、毎日変わらぬ自分一人の暮らしを続けて来た。父親が残した壁一面を覆い尽くす本に囲まれて。ところが実は、その女性には、高校時代からずっと思い続けて来た男性がいた。今は市役所に勤め、病気の妻を看病する、こちらも何の変哲もない男である。二人をつなぐのは、彼女が男の家にいつも配達する牛乳、ただそれだけ。男は、いつも決まった時間に届く牛乳を、いつものように取って来ては、飲まずに流しに捨ててしまう。そんな、何も起きるはずのないこの二人の間に、男の、余命限られた寝たきりの妻が、あるさざ波を立てることになる、という物語だ。</p>
<p>　この映画に、僕はすっかり惚れ込んだ。東京ではいくつかの劇場に上映を断られ、作られて1年以上も眠らされているということも耳に入っていた。こんな素晴らしい映画が。僕はある意味、義憤に燃えた。俺がこれを大ヒットさせてみせる。そんなことを思って、その日から僕は、半年間、来る日も来る日も、呪文のように『いつか読書する日』『いつか読書する日』と言い続けた。うまい宣伝、いいコピー、素敵なビジュアル、そんなことは考えもしなかった。この映画のよさを、うまく伝えられる方法など、もとより僕に思いつくはずもない。「伝えたい」「けれど伝えられない」「それでも伝えたい」。僕にできるのは、この映画を伝えることではなく、伝えきれなさの前で七転八倒し、もがき苦しむ、そのぶざまな姿を見せることくらいだ。だから呪文なのだ。</p>
<p><img class="alignright size-full wp-image-921" title="いつか読書する日" src="http://www.eigakanshugi.com/wp-content/uploads/2007/12/dokusyo_m2.gif" alt="いつか読書する日" width="190" height="268" />　地方では、いわゆる単館系の映画をヒットさせるのは、容易なことではない。映画の宣伝は東京で行なわれ、映画の興行力はおおむね東京で決まる。東京でヒットしなければお話にならない。人口からいっても、東京の１％。でも座席数もランニングコストも決して東京の100分の1ではないのだから、動員だけが１％なのだったら、ヒットなんてあり得ようがない。地方という川下で奔流をみるためには、水源地にはとてつもない水があふれ出ていなければどうしようもないのが現実だ。だから僕の「ヒットしてほしい」は、「東京で」につながる。そこで、お手伝いしている香港電影通信の紙面を借りて、田中裕子インタビューを企画した。ただの田舎の映画館の館主が、あの大女優・田中裕子にインタビューする。そんなあり得ないことが実現した。興奮した僕は、インタビューというのにもかかわらず、田中裕子の前でひたすらこの映画を愛していることをしゃべりまくリ、七割は聞き手の僕がしゃべっているという奇妙なことになってしまった。「あなたが演じた大場美奈子が毎日牛乳を黙々と配達するように、僕も毎日、僕の住む町で映画を配達して、間もなく50歳になります（僕と田中裕子は同い年である）」。僕のこんなこじつけが、普通のおばさんを演じたかったという田中裕子の琴線に触れたのか、なぜかこのインタビュー（もどき）は、彼女を大いに喜ばせたようだ。「なにせ大女優ですから写真も原稿もすごくチェックが入るだろうので覚悟しておいてくださいね」と配給会社の人に言われていたにもかかわらず、撮った写真はどれを使うのもOK、原稿は一箇所の訂正さえも入れられなかった。</p>
<p>　『いつか読書する日』は、東京では、まだ桜丘町にあった頃のユーロスペースで、その年の7月2日（奇しくも成瀬の命日）に公開され、予想を上回るヒットとなった。それから2週間遅れての僕の劇場での公開の初日に、僕はゲストとしてこの映画の脚本家・青木研次を招いた。本当なら監督をというところだが、僕は監督のいないところでの脚本家の発言というのを聞いてみたかった。そして監督・緒方明を、満を持して1週目の最後の金曜日に、主演の岸部一徳といっしょに呼ぶことにした。田中裕子を呼ぶ？　さすがに僕もそんな大それたことは考えもしなかった。しかし。ここで思わぬことが起きる。岸部一徳が、行きたいけれど行けないと言っているというのだ。なぜなら彼は、田中裕子から「大分の館主さんでこの映画をとっても愛してくれているこんな人がいるのよ」と僕のことを聞かされていて、それでそこに招かれたのは自分です、とは田中裕子にとても言えない、と。配給会社は僕に、ここはひとつ、田中裕子に「お呼びしたいのは、やまやまですが」と断りの手紙を書いてほしいと言ってきた。行くとも言っていない人を断る手紙を書くことはできないので、手紙には「来てください」と書くしかない。きっと断ってくるだろうと書いた手紙に、あにはからんや田中裕子のOKの返事が返ってくる。やれ高級車で出迎えしろの、もしかするとメイク代まで請求がくるのと配給会社からさんざん脅され、まるで爆弾でも扱うかのような緊張を強いられて、ついに田中裕子がやって来た。混乱を避けるため田中裕子来館はいっさい伏せたまま、当日、舞台にあがった緒方明監督と岸部一徳に続いて、「実は今日はもう１人、ゲストをお招きしています」と田中裕子を紹介した。満員の観客席からは悲鳴があがった。この瞬間が、僕の映画館人生最高の瞬間だったと言ってよい。こうして僕の劇場は、「田中裕子が来た映画館」になった（ちなみに田中裕子は実にフランクで、気を遣わせるどころか逆に気を遣い、しまいには「お忙しいでしょうからお見送りは結構です」とまで言った）。</p>
<p>　さて、こうして公開した『いつか読書する日』は、74席の僕の映画館で1週間におよそ1000人を動員し、3週間、客足は落ちることなく、約 3000人を集客する大ヒットとなった。東京の1％の地方都市で、東京の10％の興行を成し遂げたのだ（1週あたりで言えば30％）。</p>
<p>　「思いはきっと伝わる」。そんな子どもじみた甘いことを本気で信じ、それに観客が必ず応えてくれることを疑いもしなかった。今思えば、僕がしたのはただそれだけだ。しかし、そんな「夢みたいなこと」を言っていることこそが、映画という「夢」にうつつを抜かすわれわれの本分ではないのか。</p>
<p>　そう。僕が『いつか読書する日』を好きなのは、この映画が、じっと１人の男を思い続け、その思いを遂げる女性の物語だったからに他ならない。</p>
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<h5><em>『いつか読書する日』</em></h5>
<p>2004年日本／監督：緒方明／脚本：青木研次／出演：田中裕子、岸部一徳、仁科亜季子、渡辺美佐子、上田耕一、香川照之<br />
<a href="http://www.eiga-dokusho.com/" target="_blank">http://www.eiga-dokusho.com/</a></p>
<h5><em>シネマ５</em></h5>
<p>小津安二郎が「豆腐屋なんだから豆腐しか作らない」と言ったように、「映画だけを味わい尽くせる場所」をめざして20年。映画と観客の幸福な出会いを、用意はしても邪魔はしない。この映画館に個性があるとすれば、それは観客が作り出してきたものだ。この場所でだれがいつどんな映画をどんなふうに見るのか。それによっていつもちがう表情、輝きを見せる「生き物」、それがシネマ５である。<a href="http://cinema5.gr.jp/" target="_blank">http://cinema5.gr.jp/</a></p>
<h5><em>田井肇 シネマ５館主</em></h5>
<p>1956年生まれ。1976年に始まった湯布院映画祭の立ち上げに加わり、以後13年間、中心メンバーとして運営に携わるが、1989年、湯布院映画祭を離れ、当時閉館の瀬戸際にあった映画館・シネマ５を借り受け、地方都市では見られなかったアート系の作品を公開する映画館としてその経営を始める。1991年にシネマ５を訪れた侯孝賢監督によって、『珈琲時光』（2003年）で浅野忠信が演じた古本屋の店主の名前に「肇」を使われる。</p></blockquote>
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