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	<title>映画館主義映画＋1 | 映画館主義 &#187;</title>
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	<description>全国の映画館主”シネマのソムリエ”と作るウェブマガジン</description>
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		<title>アメリカで映画を観る　第１回　マンハッタンとは違う価値観の複合文化施設BAM</title>
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		<pubDate>Thu, 17 Sep 2009 19:37:13 +0000</pubDate>
		<dc:creator>editer</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画＋1]]></category>

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		<description><![CDATA[今、面白い映画、面白い人が集まっているのは何処なのか？　アメリカの映画上映事情レポート第1回は、NYブルックリンより、地元密着型のアートセンターBAMをご紹介します。]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://www.eigakanshugi.com/wp-content/uploads/2009/09/BAM2.jpg"><img class="aligncenter size-full wp-image-2331" title="BAM2" src="http://www.eigakanshugi.com/wp-content/uploads/2009/09/BAM2.jpg" alt="BAM2" width="570" height="389" /></a><br />
<strong>Brooklyn Academy of Arts (BAM)</strong><br />
　<br />
　映画『イカとクジラ』でインテリ夫妻が住んでいたパーク・スロープや、故ヒース・レジャーと恋人のミシェル・ウィリアムズが住んでいたキャロル・ガーデンなど、マンハッタンの対岸にあるブルックリンには、人気沸騰中のエリアが数多くある。マンハッタンの家賃高騰が最もな理由だが、マンハッタンに留まらざるを得ない理由が減ってきたことも起因しているのだろう。</h4>
<p>　ブルックリンの文化活動を支えるNPO施設、BAM（Brooklyn Academy of Music）は前述のふたつのエリアにほど近いところにある。マンハッタンからも地下鉄で15分程度、多くの路線が交差するターミナル駅にあるためアクセスもいい。BAMの歴史は古く、1861年に地元ブルックリンの交響楽団のコンサート・ホールが前身となっている。1906年にはオペラ劇場が付設され、1960年代には現在の場所へ移転している。ローズ・シネマと呼ばれる映画館が最も新しく、1997年に「マンハッタンまで出向かなくてもインディペンデント系映画が観られる映画館」として誕生した。</p>
<h4>ひとりの俳優の舞台公演と特集上映が同時に</h4>
<p>　BAMは演劇やダンス、音楽などの公演を行なうシアター、オペラを上演する劇場、リハーサル・スタジオそしてローズ・シネマからなる。複合施設だけあり、双方の連携が良く取れているのもBAMがニューヨークにおける文化施設としてユニークな点だ。</p>
<p>　例えば、この９月から上演されるジュエリエット・ビノシュとアクラム・カーンによる『イン・アイ』に併せ、「ランデブー・ウィズ・ジュリエット・ビノシュ」という特集上映が行なわれる。特集初日に上映される『PARIS』にはビノシュと監督のセドリック・クラピッシュが駆けつけQ&amp;Aセッションを行なうなど、アーティスト稼働も多い。同時期にはロバート・レッドフォードの俳優として、また活動家としての功績を讃える特集上映も企画されている。もちろん、レッドフォードも丸一日かけて映画上映とQ&amp;Aセッションに付き合う。この秋はビノシュの他にも、イザベル・ユペール（11月に上演される『QUARTETT』）やケイト・ブランシェット（同じく11月に上演されるテネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』に出演）らが控えており、彼女たちの特集上映も企画されることだろう。</p>
<p>　BAMにはオペラ・シアターもあるが、リンカーン・センターのメトロポリタン・オペラで上演されている演目をHD映像で生中継するプログラムもあり、売り切れてしまった公演を高音質・高画質で鑑賞することができる。</p>
]]></content:encoded>
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		<title>［書評］山根貞男『マキノ雅弘　映画という祭り』</title>
		<link>http://www.eigakanshugi.com/2150</link>
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		<pubDate>Fri, 11 Sep 2009 01:17:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator>editer</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画＋1]]></category>

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		<description><![CDATA[なぜマキノ映画を観るとわくわくしてしまうのか？　マキノ映画を語るに最もふさわしい批評家による、マキノ映画を語ることの無上の歓びにあふれた一冊。（高崎俊夫）]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><a href="http://www.eigakanshugi.com/wp-content/uploads/2009/09/makino.jpg"><img src="http://www.eigakanshugi.com/wp-content/uploads/2009/09/makino.jpg" alt="makino" title="makino" width="200" height="289" class="aligncenter size-full wp-image-2151" /></a></p>
<p>　昨年は、マキノ雅弘監督の生誕百年に当たり、フィルムセンターの大回顧上映をはじめ、全国各地でさまざまな記念イベントが開催された。山根氏の本書も、それに併せて刊行された著作といえる。マキノ雅弘には『映画渡世』（平凡社）という面白さにおいては空前絶後のメモワールがあるが、この傑作自伝を纏めたのが山田宏一氏と山根氏であり、山田氏もやはり生誕百年を祝して『日本俠客伝　マキノ雅弘の世界』（ワイズ出版）を上梓している。つまり、マキノ映画を語るに最もふさわしいふたりの映画批評家の著作が相次いで出揃ったわけだ。</p>
<p>　マキノ雅弘。この生涯に２６０本あまりの映画を撮った＜生きる日本映画史＞ともいうべき名匠は、時代劇、任俠映画、メロドラマに戦争映画、ミュージカル、コメディと娯楽映画のすべてのジャンルを手がけた。また、俳優を育てる名人であり、山田五十鈴、森繁久彌、高倉健、藤純子etc、マキノ雅弘によって才能を開花させていったスターは枚挙に遑（いとま）がない。</p>
<p>　山根氏は、ほとんど＜体系＞といったものを持たないマキノ映画の無類の面白さ、楽しさを論じることの困難さを充分に自覚しながらも、「マキノ熱の水位が上昇してしまい」、とにかく「マキノ作品の好きなシーンについて、どう面白いのかを語ろう」と決意する。<br />
　<br />
　日本の映画批評家の中で最も感性的な放恣を自らに禁じ、周到に論理を組み立てていく書き手である山根氏が、ここでは、ほとんど無防備までに、画面を描写・再現することに徹し、その無上の喜びを満喫しているかのようだ。その意味で、本書は山根氏の全著作の中で最も幸福感に包まれた書物といえるだろう。</p>
<p>　たとえば、マキノ映画で最も印象的なものとして＜踊り＞がある。戦前の名作『阿波の踊子』のクライマックス、怒濤のような大群衆の阿波踊りのシーンが、いかに異様なまでの感銘を与えるかをめぐって考察がなされ、さらに頻出する＜お面＞が踊りの場面において、どれほど映画的に活用されているかが臨場感たっぷりに語られる。<br />
　<br />
　さらに、阪東妻三郎主演の『血煙高田馬場』、中村錦之助の『若き日の次郎長』シリーズほか時代劇や任侠ものでトレードマークのように現れる、登場人物たちが「ワッショイ、ワッショイ！」の掛け声とともに一丸となって走り出す祝祭的なイメージのすばらしさへの手放しの称讃が綴られる。</p>
<p>　筋金入りの硬派であるはずの山根氏には珍しい「ラブシーン作法」という章もある。ここでは、＜マキノ節＞といわれる独特の男女の微妙な情愛を描くシーンが、シナリオ、画面、双方から驚くほどの細密さで引用され、列挙されている。</p>
<p>　さらに、リメイク考という章は、マキノ雅弘が撮った夥しい数のリメイク作品についての綿密な論考であるが、たとえば、『殺陣師段平』の黒澤明の脚本と出来上がった作品と決定的な相違、そのリメイクである『人生とんぼがえり』との差異が徹底検証される。そして、そこから浮かび上がってくるのは、晩年の愛弟子である澤井信一郎監督が指摘するように、「物語の説明」ではなく、「人間の綾、セリフの綾、芝居の綾」の結晶としての＜マキノ節＞の魅惑なのである。</p>
<p>　最終章では、山根氏が、その＜マキノ節の神髄＞であると断言する東宝の『次郎長三國志シリーズ』全９部（1952〜54）の圧倒的な面白さがテンポよく縦横に語られている。これほどの紙幅をもって、この名作シリーズが論じられたのは、恐らく初めてではないだろうか。実際、ここでの山根氏の筆致は、あたかも舌なめずりせんばかりの喜悦と躍動感に満ちており、読んでいるそばから、その作品群を見たいという衝迫を抑え難い。</p>
<p>　あとがきで触れられているように、山根氏の最初の映画との出会いは、マキノの『よいどれ八萬騎』だった。映画的原点への回帰であることを、さりげなく明かす本書は、やはり幸福な書物なのである。</p>
<blockquote><h6>『マキノ雅弘　映画という祭り』</h6>
<p>山根貞男著／新潮選書／1470円（税込）<br />
マキノ映画の、ああ底抜けの面白さ！（帯より）
</p></blockquote>
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		<title>［書評］土本典昭・石坂健治『ドキュメンタリーの海へ——記録映画作家・土本典昭との対話』</title>
		<link>http://www.eigakanshugi.com/2143</link>
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		<pubDate>Fri, 11 Sep 2009 00:46:03 +0000</pubDate>
		<dc:creator>editer</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画＋1]]></category>

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		<description><![CDATA[インタビューによって掘り下げられていく土本典昭の個人史。これまでの著書ではあまり触れられなかった青少年時代の話や、60年代以降の日本映画の歴史に対する貴重な証言が満載。（村山匡一郎）

]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h5><img class="aligncenter size-full wp-image-2144" title="kiroku" src="http://www.eigakanshugi.com/wp-content/uploads/2009/09/kiroku.jpg" alt="kiroku" width="212" height="300" /></h5>
<p>　２００８年６月に７９歳で逝去したドキュメンタリー映画作家・土本典昭の最後のインタビュー本である。土本典昭監督は、『水俣ーー患者さんの世界』（1971）など「水俣」シリーズで世界的に知られているが、１９６０年前後に世界のドキュメンタリー映画に起こった新しい流れのなかで、小川紳介監督と並んで日本の新しい波を代表する一人であり、それ以降の日本のドキュメンタリー映画の歩みを象徴する映画作家といえる。本書は、その土本典昭監督に対して、共著者である映画研究家の石坂健治をはじめ、ドキュメンタリー映画を志向する若い世代の映画作家や研究者たちが２００３年から２年間にわたって聞き書きした成果の一つである。</p>
<p>　土本典昭監督には『映画は生きものの仕事であるーー私論・ドキュメンタリー映画』（1974,2004）や『わが映画発見の旅ーー不知火海水俣病元年の記録』（1979,2000）など多くの著書があり、彼の考えや映画作りを知ることができる。それに対して、本書は土本典昭監督の生涯が時間順にインタビュー構成され、多くの写真資料をはさみながら、いわば自伝的な書物になっている。事実、土本典昭監督は病床のなかで徹底して赤入れをおこなったとも伝え聞く。その意味で、ドキュメンタリー作家・土本典昭について知る上での決定本といえるだろう。</p>
<p>　本書は全５章仕立てで構成され、監督デビューを果たした『ある機関助士』（1963）から始まる第２章以降、水俣、アフガニスタンなど監督作の内容と重ねられて、ほぼ１０年ごとに区切られている。なかでも興味深いのは、第１章「パルチザン土本典昭前史」である。彼の傑作『パルチザン前史』（1969）のタイトルをもじったこの最初の部分は、これまであまり触れられなかった子供のころや学生運動の時期、そして岩波映画の時代を振り返っている。土本典昭監督のそれぞれの作品や映画作りの姿勢、また彼が最後まで自らを社会主義者と規定した拠り所の一端がうかがえて面白い。</p>
<p>　本書は肩肘張らずに一気に読み通すことができる。確かに文字に起こされた部分の先をさらに知りたいというところが幾つかあるが、読み終わった後、土本典昭監督の話しをもっと聞きたいという感情に抱かれる。その意味では、土本典昭監督についての最良の書物といえる。その一方、土本典昭監督が活躍を始めた１９６０年代は、ちょうど映画産業に翳りが見え、撮影所システムの凋落が目立ち始めた時期に当たる。彼の『留学生チュア　スイ　リン』（1965）が自主製作作品だったことは象徴的である。そんな土本典昭監督の生涯をたどった本書は、また同時に日本映画の黄金時代以降の歴史に対する証言としても面白く読めるだろう。</p>
<blockquote>
<h6>『ドキュメンタリーの海へ——記録映画作家・土本典昭との対話』</h6>
<p>土本典昭・石坂健治著／現代書館／3780円（税込）<br />
ドキュメンタリー映画の快楽とは何か——巨匠・土本典昭が語るその生涯と映画術のラスト・メッセージ。（帯より）
</p></blockquote>
]]></content:encoded>
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		<title>【書評】高野澄『オイッチニーのサン「日本映画の父」マキノ省三ものがたり』</title>
		<link>http://www.eigakanshugi.com/519</link>
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		<pubDate>Tue, 03 Mar 2009 11:36:08 +0000</pubDate>
		<dc:creator>editer</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画＋1]]></category>

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		<description><![CDATA[評伝ではなく、あくまで伝記的“小説”。想像力によって再現される「日本映画の父」マキノ省三の映画人生と、彼が生きた日本映画の創生期の空気とは。（村山匡一郎）]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img class="alignleft size-full wp-image-1172" title="オイッチニーのサン" src="http://www.eigakanshugi.com/wp-content/uploads/2009/03/makino.jpg" alt="オイッチニーのサン" width="166" height="240" />　誕生から十数年、産業として整うまで、映画は海のものとも山のものともつかない怪しげな見世物だった。それでも「動く映像」の新奇さに惹かれ、世界中で好奇心と冒険心に満ちた人々は、製作でも興行でも、新しいメディアの可能性に対してさまざまな試みをおこなった。わが国においても例外ではない。そんな日本映画の創生期に活躍して大きな影響を残した人物の一人にマキノ省三がいる。本書は、「日本映画の父」と称されるマキノ省三の生涯を描いたものである。</p>
<p>　マキノ省三（１８７８－１９２９）は、よく知られるように、映画会社の経営者、製作者、監督として活躍し、創生期の日本映画が産業として成立していく過程で後に分化する職種を一身に体現した人物である。なかでも最初の国民的映画スターとなった「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助の主演映画の製作は有名である。また「一スジ、二ヌケ、三ドウサ」という映画の持論でも知られる。「スジ」とは物語、「ヌケ」とは鮮明な映像、また「ドウサ」とはメリハリの効いたアクションとその展開であり、いわば映画（劇映画）の演出論といえる。本書のタイトルの「オイッチニーのサン」もマキノ省三が撮影現場で発した「ヨーイ、スタート」のかけ声からとられている。</p>
<p>　その一方、マキノ省三のもとから阪東妻三郎、嵐寛寿郎、月形龍之介といったその後の多くの映画スターが育っているが、マキノ省三の子どもたちも監督や俳優になっている。たとえば、昨年、俳優の津川雅彦がマキノ雅彦の名で監督した『次郎長三国志』は、マキノ雅弘が１９５０年代に監督した『次郎長三国志』シリーズに基づいているが、マキノ雅弘は津川雅彦の叔父にあたる。津川雅彦の母親である元女優のマキノ智子はマキノ雅弘の一つ違いの姉であり、この姉弟の父親がマキノ省三である。さらに第二次大戦後に東映の製作者として活躍したマキノ光男など、マキノ省三の血筋は日本映画の歴史を縦断していて活躍している。そうした事どもを含めて、マキノ省三の生涯を語ることは、まさに日本映画の歴史を描くことでもある。</p>
<p>　そんなマキノ省三の生涯を描く本書は、実は評伝ではない。サブタイトルにあるように、これは「マキノ省三ものがたり」であり、小説である。もちろんこれまでに書かれたものや伝聞などに基づいており、それらの資料の上に立ってフィクションとしてまとめている。こうしたやり方は、最近の映画でいえば、ドキュドラマ、つまりドキュメンタリー・ドラマに似ていなくもない。実際の出来事を、事実関係や資料に基づいて、創り手の想像力で補いながら、創り手の関心のもとに再現すること。本書の著者も長年抱いてきたマキノ省三への関心から資料を探って本書をまとめている。</p>
<p>　資料から断片的にうかがい知れるマキノ省三と、そこから想像される彼の人生。知りえない過去を想像力で補うことは、歴史へのひとつの見方である。そんな伝記的小説である本書を通して、マキノ省三の映画人生と彼が生きた日本映画の創生期の空気が伝わってくる思いがする。<br />
（村山匡一郎）</p>
<blockquote>
<h5><em></em><em>『オイッチニーのサン「日本映画の父」マキノ省三ものがたり』</em></h5>
<p>高野澄著／PHP研究所</p></blockquote>
]]></content:encoded>
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		<title>【書評】芝山幹郎『映画一日一本——DVDで楽しむ映画３６５』</title>
		<link>http://www.eigakanshugi.com/517</link>
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		<pubDate>Thu, 19 Feb 2009 11:32:44 +0000</pubDate>
		<dc:creator>editer</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画＋1]]></category>

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		<description><![CDATA[＜映画を読む＞愉しみを与えてくれる数少ない本物の批評家の一人、芝山幹郎による本書は、一見、ハンディなＤＶＤガイドを装いながらも、一本の映画に潜む＜急所＞と＜気配＞を余さずに伝えてくれる。 （高崎俊夫）]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img class="alignleft size-full wp-image-1165" title="映画一日一本" src="http://www.eigakanshugi.com/wp-content/uploads/2009/02/ichinichi.jpg" alt="i映画一日一本" width="281" height="400" />　今、読んでいて、わくわくさせる、あるいは、すぐさま、その映画を見たいという気を起こさせるような批評はきわめて少ないのではないだろうか。妙にアカデミックで生硬な語彙を駆使する無味乾燥な文章が跋扈しているかと思えば、一方では、ネットで仕入れた瑣末な一夜漬けの知識を自慢げに垂れ流す幼稚な感想文ばかりが、氾濫しているような気がしてならない。</p>
<p>　そんな中で、芝山幹郎氏は＜映画を読む＞愉しみを与えてくれる数少ない本物の批評の書き手の一人だ。本書は、一見、ハンディなＤＶＤガイドを装いながらも、著者好みの言葉を使うならば、一本の映画に潜む＜急所＞と＜気配＞を余さずに伝えてくれる好著である。</p>
<p>　ヒッチコック、ルビッチ、フォード、ホークス、小津、溝口、成瀬、黒澤といった巨匠の名作から、血湧き肉躍るアルドリッチ、ドン・シーゲル、セルジオ・レオーネの活劇、さらに『ハイスクール白書　優等生ギャルに気をつけろ』といったＢ級の未公開作まで、取り上げられている作品のゴッタ煮のような多彩さ、幅広さにも思わず目を奪われる。</p>
<p>　しかし、一本の映画の魅力を四百字詰め原稿二枚弱で表現するには、際立った文章の芸と付け焼刃ではない映画的教養が必要とされる。</p>
<p>　たとえば、サム・ペキンパーの『砂漠の流れ者』評は、いきなり「荒野とはアメリカ最高の抒情である」という断言から始まる。芝山氏は、かつてデス・ヴァレーで突然雷雨に襲われた時に目撃した、道端に腰をおろした父子が虹を眺めるように稲妻を観賞している光景を回想し、花鳥風月がいかに土地によって異なるかに思いを馳せる。そして「荒野の真ん中で営まれる暮らしの牧歌的な描写がおとぎ話のように美しい」この西部劇には、「＜男の哀愁＞といった言葉ではくくれない、ふわりとした慈悲と寛容の心が宿っている」と結論づけるのだ。ペキンパーといえば、お題目のごとく＜バイオレンスの巨匠＞などと唱え、お茶を濁してしまう凡百の映画ライターとは＜画面を見る＞レベルが違うのである。</p>
<p>　芝山氏はもともと詩人として出発しただけに、こうした手垢のついた紋切り型のフレーズを極度に嫌う。映画から感受した微妙なバイブレーションを自らの内で＜言葉＞として蒸留されるまでじっくりと時間をかけ、批評言語という完成形として紡ぎだそうとする強い意思が感じられるのだ。</p>
<p>　その結果、時には俳優の魅力を介して、その映画の本質を摑むという力業を見せることもある。その好例が『女は二度生まれる』で、ヒロインの若尾文子に言及しながら、「首から肩にかけての、たおやかでいながら保護を必要とするように心細げな曲線。艶っぽい笑い声と、芯の強そうな泣き声。水銀のようにゆらめくこの肉体を通して、川島雄三は戦後日本の空気を描き出し、そこに棲息する生命を切り抜こうとする」と見事に作品の主題まで探り当てている。</p>
<p>　一般にはコメディの巨匠と思われているビリー・ワイルダーだが、『サンセット大通り』や『深夜の告白』のような傑作を見ると、人間の邪悪な側面を抉るフィルム・ノワールの分野でこそ、その才能は十全に発揮されたのではないだろうか。そんな仮説から、『地獄の英雄』という小品の魅力が解き明かされる。カーク・ダグラス演じるヤクザな新聞記者がニューメキシコの廃坑で起こった事件をセンセーショナルな空騒ぎのイベントに仕立て上げる顛末を描いた、この映画にこそ、ワイルダー特有の辛辣な観察が詰まっているとする指摘には深く共感させられた。</p>
<p>　こんな風に、本書は、一本一本の映画を語りながら、旧来の古色蒼然たる映画史の通念や常識とされる言説にうっちゃりをかけているのが何とも痛快である。どんな作品も角度を変えて眺めてみれば、意想外な貌を垣間見せる瞬間があることを教えてくれる出色のシネマガイドといえよう。</p>
<blockquote>
<h5><em>『映画一日一本——DVDで楽しむ見逃し映画３６５』</em></h5>
<p>芝山幹郎著／朝日新聞社刊</p></blockquote>
]]></content:encoded>
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		<item>
		<title>【書評】松本俊夫『映像の発見〜アヴァンギャルドとドキュメンタリー』『表現の世界〜前衛芸術たちとその思想』</title>
		<link>http://www.eigakanshugi.com/515</link>
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		<pubDate>Sat, 31 Jan 2009 11:30:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>editer</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画＋1]]></category>

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		<description><![CDATA[60年代の映画青年に多大なる影響を与えた伝説の名著２冊が復刻。 ラジカルな思考に貫かれた映画・映像論は、今読んでも新鮮だ。映画を志す若者は必読！（村山匡一郎）]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p style="text-align: center;"><img class="aligncenter size-full wp-image-1160" title="松本俊夫" src="http://www.eigakanshugi.com/wp-content/uploads/2009/01/hyogen_l1.gif" alt="松本俊夫" width="445" height="310" /></p>
<p>　『西陣』（1961）『石の詩』(1963)など記録映画、『薔薇の葬列』（1969）『ドグラ・マグラ』（1988）など劇映画、また『オートノミー』（1972）『エニグマ』（1978）など実験映画・・・ジャンルを超えて映画・映像を創作し、また大学などで若い世代を育ててきた松本俊夫。彼は２０世紀後半のわが国におけるもっとも重要な映画・映像作家のひとりといっても過言ではないが、また同時に優れた理論家・批評家でもある。その松本俊夫の２冊の伝説的な名著の復刻版である。</p>
<p>　『映像の発見』は１９６３年に出版された最初の評論集であり、１９５８年から６３年にかけて書かれた文章を収録し、それに続いて１９６７年に出版された『表現の世界』は１９６３年から６７年にかけて書かれたものを収めた第二評論集である。前者では当時の映画・映像の状況を踏まえた上での理論的な考察が主に知れるし、後者では映画作家やその作品、あるいは状況に関する批判的な論考を主に読むことができる、といえる。</p>
<p>　これらの２冊に凝縮された若き松本俊夫の映画・映像論は、当時の映画青年たちに大きな影響を与え、『映像の発見』は映画の書物としては異例なまで読まれ、刊行から１６年で１３刷まで重版されている。筆者自身も、１９６０年代末の政治の季節のなかで、若き松本俊夫の映画・映像論に知的興奮を覚えたひとりである。なかでも『映像の発見』は、ヘーゲルやマルクスあるいはサルトルらの論考を借りながら映画について考えていた筆者にとって衝撃的な出会いだった。</p>
<p>　『映像の発見』では、サブタイトルが示すように、まったく異なったジャンルと思われていたアヴァンギャルド映画とドキュメンタリー映画を同一の視点から統合しようとする論旨が主に展開されている。前者は主に個人の内面の隠された世界を漂白してきたジャンルであり、個人の外部に相対する現実にカメラを向けてきたジャンルである後者と対立的にとらえられていた。だが、ここでは、いわば内部と外部、主観と客観、主体と客体、想像と事実、意識と現実など、二項対立的に見られた両者を往還する視点から映画・映像をとらえるという斬新な思考に貫かれている。実際、自分の頭の内部と自分の外側にある世界とは同じ現実にあるし、自分にとってどちらが重要であるかなどとはいえないだろう。そこで、その両者を同時にとらえる視点が不可避になる。そのことを松本俊夫は明快かつ論理的に論じている。</p>
<p>　もちろん若き松本俊夫の考えはそう単純ではなく、多彩で複合的である。実際、両者の接点としての「もの」が考察されており、またマルクス主義的な視点から、当時の日本の政治・社会・文化などの状況も分析している。とはいえ、時代という制約を考慮しても、『映像の発見』と『表現の世界』で提示された考えは、今日読んでも今なお新鮮である。その意味で、この２冊は時代や世代を超えてラジカルに刺激し続ける映画・映像論であり、映画・映像を志す若い人たちにとって必読書といえる。</p>
<blockquote>
<h5><em>『映像の発見〜アヴァンギャルドとドキュメンタリー』</em></h5>
<p>2100円／清流出版</p></blockquote>
<blockquote>
<h5><em>『表現の世界〜前衛芸術たちとその思想』</em></h5>
<p>2100円／清流出版</p></blockquote>
]]></content:encoded>
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		<title>【サントラ道】第２回：湯山玲子「ウォン・カーウァイ全作品」</title>
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		<pubDate>Sat, 31 Jan 2009 11:16:45 +0000</pubDate>
		<dc:creator>editer</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画＋1]]></category>

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		<description><![CDATA[『ブエノスアイレス』におけるザッパ使い、『マイ・ブルーベリー・ナイツ』のブルース表現など、ぶっ飛んだ選曲センスで私たちを驚かせてくれるウォン・カーウァイ。もはや彼は映画というよりも音楽の神の方に多く愛されている……？]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img title="ウォン・カーウァイ" src="http://www.eigakanshugi.com/wp-content/uploads/2009/01/wong_l1.jpg" alt="ウォン・カーウァイ" width="570" /></p>
<p>　監督と言うよりもミュージシャンと言った方がふさわしいような、耳の良い映画監督が多くなってきた。というよりも、この時代、たんに記号的にしか音楽を扱えない、音楽感性ゼロの監督はそうとうマズイ事になってきている。若者の反抗がテーマなら、ストーンズやパンク、ちょっと知的にふりたいのなら、アバンギャルドジャズをあてときゃ、いいだろ、的、紋切り型でサントラを片付けようとする監督は、今や最もアウト、でしょう。これだけ、おウチで手軽に映画が見れるようになった時代、映画館の素晴らしい音響システムは、まるでクラブに音楽を浴びに行く感じにも近い。そう、現在、映画における音楽の存在は相当に大きいのだ。</p>
<p>　もともと、映画音楽と映像表現は夫婦茶碗のようなもの。見知ったものごとに違うファクターをぶつけ、未知の異様なものに見せる「異化効果」の好例として常に挙げられる、キューブリックの『博士の異常な愛情』の、ヴェラ・リンの甘い歌声が水爆のチェーン爆発に被さっていく、あの、何とも言えない毒とさわやかさのラストシーンが示すように、映画における音楽の選球眼は、監督の才能の発揮どころではある。</p>
<p>　私がサントラ達人とあがめ崇める才能は、もうすでにいろいろな人が語りつくしてはいるが、どうみてもウォン・カーウァイ、この人につきるのだ。</p>
<p>　彼もまた、タランティーノと同様、すでに人々の記憶の中に収まりがついている既存のポップスを使い、その曲にへばりついているメッセージやその時代の音色、引き起こされる情感をマックスに利用してシーンを完成させることについては抜群の才能をみせる。『欲望の翼』で使ったザビア・クガートをはじめとする40年代のひたすら甘く狂おしいマンボとフィリピンの密林を彷徨する救われない男の魂とのフィット感はもの凄いもので、このアイディア一発で、あの文芸誌が喜びそうな、ありがちのナイーブな青春群像が一種、魔術的な神話的な色彩を帯びてくるのだから凄い。これ、サントラというよりも、逆にザビア・クガートの音楽の一種の解釈表現かと見まがうほどだ。</p>
<p>　有名な『恋する惑星』や『天使の涙』の選曲も上手いが、腰を抜かすほど驚いたのが、『ブエノスアイレス』における、フランク・ザッパ使いだった。英語のタイトル名にもなったタートルズのほの暗いヒットチューン「ハッピートゥギャザー」の選び方も上手かったが、まさか、ザッパの「I Have Been In You」を持ってくるとは！</p>
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		<title>【書評】山田宏一『［増補］トリュフォー、ある映画的人生』</title>
		<link>http://www.eigakanshugi.com/521</link>
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		<pubDate>Wed, 17 Dec 2008 11:38:14 +0000</pubDate>
		<dc:creator>editer</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画＋1]]></category>

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		<description><![CDATA[本人の葬儀の光景から始まり、フラッシュ・バックのようにその誕生まで一気にさかのぼり、『大人は判ってくれない』でデビューする直前で幕を閉じる——。鮮やかな構成で魅せるトリュフォー伝の決定版。（高崎俊夫）]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img class="alignleft size-full wp-image-1176" title="トリュフォー、ある映画的人生" src="http://www.eigakanshugi.com/wp-content/uploads/2008/12/truffaut.jpg" alt="トリュフォー、ある映画的人生" width="269" height="400" /></p>
<p>　恐らくフランソワ・トリュフォーは日本人に最も愛されているフランスの映画監督であろう。それは何故か。理由ははっきりしている。山田宏一というかけがえのない盟友が没後四半世紀を経た今もなお、トリュフォーの膨大な仕事をこの上ない綿密さで紹介し続けているからである。　</p>
<p>　トリュフォー作品のリバイバルのたびに完璧な字幕を作成し、映画ファンのバイブルともいうべき名著『定本映画術　ヒッチコック／トリュフォー』（晶文社）から、現在、進行中の『トリュフォー書簡集』（平凡社近刊）の翻訳に至る山田氏の繊細な仕事ぶりは、まさに頭が下がる思いだが、中でも本書は、永年の信頼関係と深い洞察に支えられた世界で最も感動的なトリュフォー伝といってもよい。</p>
<p>　まず、構成が大胆かつユニークである。まるで晩年の陰鬱な苦いドラマ『恋愛日記』を思わせるような、トリュフォーの葬儀の光景から書き起こされ、フラッシュ・バックのようにその誕生まで一気にさかのぼり、彼が長篇『大人は判ってくれない』で華々しくデビューを飾る直前で終わっているのだ。その点について、山田氏は次のように説明する。</p>
<p>「トリュフォーが映画作家としての道を歩みはじめてから以後は、その作品をとおして人生をたどることが唯一の、そして最も興味深いトリュフォー評伝になるだろう。トリュフォーの映画には彼の人生のすべてが表現されているからにちがいないからである。」</p>
<p>　実際、『大人は判ってくれない』に描かれていたように、トリュフォー自身も学校をサボって映画に夢中になり、家出を繰り返し、両親に見放されて感化院送りになった不幸な少年時代がその後半生に微かな暗い影を落としている。その彼を精神的な父として手厚く庇護し、救ってくれたのが十五歳年上の映画批評家アンドレ・バザンであった。バザンの導きで映画批評に手を染めたトリュフォーは、やがて＜フランス映画の墓堀人＞とまで呼ばれるような過激な論陣を張ることになる。</p>
<p>　そしてやはりもう一人の映画的な父親ともいうべきアンリ・ラングロアが主宰するシネマテーク・フランセーズで映画を浴びるように見たトリュフォーは、その並外れた映画的教養を糧に、撮影所の助監督経験もなしに、いきなり＜ヌーヴェル・ヴァーグ＞の旗手となる。</p>
<p>　本書は刺激的なヌーヴェル・ヴァーグ史でもあるが、山田氏は、この世界映画史を洗った革命的な運動が真に成功を収めたのは、ブルジョア育ちのエリートであるクロード・シャブロルやジャン＝リュック・ゴダールの中にあって、小学校もきちんと出ていない、独学でキャリアを築いた感化院上がりの不良少年トリュフォーがいたからであるという根源的な視点を決して手放さない。</p>
<p>　トリュフォーは親密さに溢れたその作品を通して、女への、子供への、書物への、あるいは映画そのものへの迸るような愛と情熱を飽くことなく語り続けたが、ゆるぎない巨匠然とした風格に満ちた作品を撮ることはなかった。自伝的なアントワーヌ・ドワネルものの主人公であるジャン＝ピエール・レオーそのままに、どこか情緒不安定な脆さが漂っているのが限りなく魅力的だった。</p>
<p>　「トリュフォーの作品は、捨て子の記憶を背負いながらもその暗い絶望と挫折感から立ち直って人間であることを自覚し、生の歓びを発見して、社会復帰するまでのトリュフォー自身の生の軌跡でもあった」という山田氏の見事な指摘にはただ肯くのみである。</p>
<p>　『メカスの映画日記』（フィルムアート社）の中で、ジョナス・メカスは「ジャン・ルノワールは永遠に新しい波である」と書いたが、この感動的なフレーズは、そのままトリュフォーの作品に捧げてもよいのではないだろうか。</p>
<blockquote>
<h5><em>『［増補］トリュフォー、ある映画的人生』</em></h5>
<p>山田宏一著／平凡社／税込1365円</p></blockquote>
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		<title>【書評】『ドキュメンタリーは語る　作家インタビューの軌跡』</title>
		<link>http://www.eigakanshugi.com/507</link>
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		<pubDate>Mon, 17 Nov 2008 11:20:30 +0000</pubDate>
		<dc:creator>editer</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画＋1]]></category>

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		<description><![CDATA[山形国際ドキュメンタリー映画祭の刊行物「Documentary Box」に掲載された、日本を代表する作家26人のインタビューの単行本化。現実にカメラを向け続ける彼らの生の言葉は重く、面白い。（村山匡一郎）]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img class="alignleft size-full wp-image-1152" title="documentarysakka" src="http://www.eigakanshugi.com/wp-content/uploads/2008/11/documentarysakka.jpg" alt="documentarysakka" width="282" height="400" />　山形国際ドキュメンタリー映画祭が 1992年から15年間にわたって刊行してきた「 Documentary Box 」という冊子がある。日本のドキュメンタリー作家の活躍とその歴史を海外に発信するため日本語版と英語版で刊行され、毎号、研究論文のほか、ドキュメンタリー作家たちへのインタビューを掲載してきた。そのインタビューをまとめて改めて構成したのが本書である。</p>
<p>　ドキュメンタリー映画はこのところ、若い世代からを含めて熱い視線を浴びている。それはおそらく、さまざまな領域で格差が広がりつつある今日の社会を背景に、劇映画とはまったく異なった魅力を持った映画であることが知られてきたからだろう。そうしたドキュメンタリー映画の魅力とは何かということを、ここでは創り手たちの言葉を通して生き生きと伝えてくれる。それぞれの作家たちの生い立ちや製作現場の裏話を含めて、時には優しく、また時には鋭く紡ぎ出される言葉から、現実に対してカメラを向けることの重みや面白さが立ち上ってきて読み応えがある。</p>
<p>　確かにドキュメンタリー映画は幅が広く、それぞれの作家たちのドキュメンタリーに対する思いも考えも違っている。だが、彼らが現実に対してカメラで向かい合う姿勢は、驚くほど似ている。面白いのは、最初はドキュメンタリー映画を見たことも知識もなく業界に入った作家たちや、最初は劇映画志向だった作家たちの言葉である。そんな彼らが次第にドキュメンタリー映画にのめり込んでいく姿に、ドキュメンタリー映画の魅力を改めて知らされる思いがする。</p>
<p>　本書は、たとえば「岩波映画と出身監督たち」「孤高の監督たち」といったテーマで８部構成になっているが、同時に日本のドキュメンタリー映画の歴史を俯瞰できるように並べてある。この縦糸と横糸から取り上げられているのは、古くは「プロキノ」の作家たちから、新しいところでは是枝裕和、土屋豊、河瀬直美まで、全部で26人の作家たち。生前の講演を掲載した亀井文夫を除くと、すでに亡くなっている作家は残念ながら不在だが、インタビュー後、小森静男、能登節雄、土本典昭、黒木和雄、佐藤真、柳澤壽男、松川八洲雄ら、多くの作家が今日までに鬼籍に入られた。その彼らの証言はまさに貴重なものになっている。</p>
<p>　ドキュメンタリー作家に関する書物は、これまでそう多くは見当たらない。本書のように、数多くの作家たちの言葉からドキュメンタリー映画の魅力を探る本は珍しい。日本のドキュメンタリー映画の歴史と現在を知る上で有意義な一冊といえる。</p>
<blockquote>
<h5><em>『ドキュメンタリー映画は語る　作家インタビューの軌跡』</em></h5>
<p>山形国際ドキュメンタリー映画祭東京事務局編／未來社／2006年／A5判494ページ／税込5040円</p>
<p>山形国際ドキュメンタリー映画祭　公式ホームページは<a href="http://www.yidff.jp/home.html" target="_blank">こちら</a></p></blockquote>
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