初出:「フィルム・ネットワーク」No.47(国際交流基金/エース・ジャパン発行)
写真:神代辰巳監督『恋人たちは濡れた』の撮影現場にて
――1960年代の末期には日活が苦しくなり、大映と共同配給するダイニチ映配がつくられますね。藤田敏八監督の『野良猫ロック・暴走集団71』(1971)なんて、かなりアナーキーな作品でした。
あれは伊豆でロケしたんですね。原田芳雄、藤竜也、梶芽衣子なんかが出ていて、もう長谷川和彦が助監督として日活に出入りしていました。いまでも覚えているけど、洞窟みたいなところに入り込んで、いつまでたってもパキ(藤田敏八)さんがぐずぐずしてる。パキさんはライトさえ使えば、夜も昼になるというのを覚えちゃったものだから、延々と粘るわけですよ。それで、私がついにたまりかねて「お昼ご飯まだなの!」って叫んだのが夜の八時なんですよね(笑)。
――当時、『野良猫ロック』シリーズや『八月の濡れた砂』などダイニチ映配末期の日活作品は見ているんですが、客席はがらがらでした。その後、名画座で少しずつブームになっていくんですね。
そうそう、早すぎたのね。あの頃はフシギなものでね、撮影の現場と宣伝、営業の人たちとはかなり温度差があったんですね。やはり、つくっているときっていうのは、いつも熱いんですよ。外の空気がどうだろうと、つくるものはつくるという姿勢ですからね。もう会社がヤバイなという空気は感じていましたけど、つくるときはいつも熱かったですね。これはB級映画だから手を抜こうなんていうことはなかった。パキさんは早く死んじゃったけど、やはり、あの人はもうちょっと再評価されてもいんじゃないかなと思いますね。
――日活がロマン・ポルノに転換する時に、葛藤はなかったのでしょうか。
みんなそれぞれ自分の道を決めていかなくちゃいけないという時に、齋藤(武市)さんが、珍しく真剣な顔をして「映画はこれから歌舞伎のようになる。文化として生き残るだろうが、これでメシを食うことはできない。俺はテレビに行くが、あかねちゃん一人ぐらいは食べさせてあげる。一緒に来ないか」と誘われたんです。齋藤さんは自信があったんですね。テレビでは引く手数多(あまた)でしたから。
私もついていけば楽ができるのはわかってたんですけど、どうしてもテレビが好きになれなかった。その前に、ちょっとテレビをやったことがあって、ある作品で「この性格の主人公はこんな茶碗は使わないんじゃないの」って文句をつけたんです。日活の小道具さんなら、わかりましたと言って、すぐに自分で考えて持ってくるわけです。ところが、そのテレビの小道具さんは「そんなことを言っていたら撮りきれないですよ」と言ったんです。その時に私は、「ああ、テレビってものをつくる場所じゃないんだ、これから先の自分の人生をそういう世界には賭けられない」と思ったんですね。それで、齋藤さんには申しわけないけど、私は日活に残りますと言ったんですね。齋藤さんは少しさびしそうな顔をしていましたけど。でも、当時はロマンポルノというのがどういうものかも全然わからないわけですよね。男性と違って、ピンク映画も見たこともないわけですし、イチかバチかでした。でもそれが私の転機になったという気がしますね。
日活ロマンポルノ——神代辰巳監督と
――神代辰巳監督はロマンポルノで一気に才能を開花させるわけですね。
神代さんは、ずっと齋藤組のチーフ助監督ですから、私と神代さんは『渡り鳥』シリーズ以来、同じ釜の飯を食べてきたわけです。いきなりロマンポルノになって出会ったわけではないんです。神代さんのデビュー作『かぶりつき人生』のときはついていないんですが、あの映画はすごい不入りで、会社の人が唖然としたみたい。いま見ると、すごくいい映画でしょ。クマさんは、ロマンポルノで水を得たと言われるけど、元からそういう下地があったんです。
クマさんの一周忌で、故郷の佐賀市で特集上映があったときによんでいただいて、佐賀中学時代の同級生にお会いして、その方が言うには、クマさんが松竹に入ったときに、大草原のなかで神々がセックスをするというシナリオを書いていたたそうなんです。『恋人たちは濡れた』(1973)で中川梨絵がススキの原っぱでセックスをするシーンがありますね。だから、あれがクマさんの原点なんですね。あの映画はクマさんの自伝ですから。日活に来て、クマさんは最初は水が合わなかったと思う。ただ、クマさんの映画にある娯楽性というのは、『渡り鳥』から学んでいるんですよね。
――神代さんの現場で印象に残っていることはありますか。
『濡れた欲情・特出し21人』(1974)の時ですね。あれで私の人生観が変わりました。信州の片田舎のストリップ劇場の話で、われわれも田舎の安宿に泊まったんですが、ストリッパーの世界なんか知らないじゃないですか。まず、朝、ママさんが経営している喫茶店に行くと、そこの二階がお座敷でご飯が待っている。作ってくれるのが踊り子さんで、ホカホカのご飯、味噌汁、干物の朝食を出してくれるんです。それで劇場に行くと、ストリッパーさんたちが化粧して舞台で踊ってくれるわけですね。まるで夢を見ているような毎日でしたね。男の人が子供の世話をしていて、てっきりヒモだとばかり思っていたら、彼はストリップ小屋の保育係だったんですね。なぜ、ストリッパーさんたちが私たちにそんなに尽くしてくれたのかというと、自分たちをちゃんと人間として扱ってくれたからというんです。だから、お互いにシンパシーを交わすことができたんですね。
それで、打ち上げのときに、みんなでストリッパーの人たちにサービスしようということになって、キャメラの姫田(真佐久)さんはカツラをのっけてスっポンポンになっちゃった。ところが神代さんは服を着たまんま、黒田節なんか歌って、自分だけカッコつけちゃってるわけですよ。それで、私なんかムカーときちゃって外波山文明とストリップをやったんですよ。そしたら、踊り子さんたちが喜んじゃってね。外波山文明はだんだん真っ青になって「もう、あかねさん、やめてくれ!」って言い出して(笑)。照明が当たって最高に気持ちいいんですね。もう、下着も脱いじゃおうかと思ったんですが、止められて(笑)。その後、撮影所に帰ったら、怖い秋山みよさんが待っていて「あかねさん、スクリプターはストリッパーじゃありません」って(笑)。
――あの映画自体が、陽気でバイタリティあふれるストリッパーの世界を謳いあげている素晴らしさがありましたね。
そうですね。本当にスタッフとメンバーが一体でしたね。だから、あの雰囲気が出せたと思うし。でも、その頃は宴会するお金もなかったんです。それでも私たちは呑んでいるんですが、そうすると隣の座敷の団体客がのぞいてて、それで「参加したいの、じゃあ、酒を持って来なさい」って。プロデューサーの三浦朗は「俺はスタッフに酒も飲ませてやれない」って陰で泣いているわけです。でも、スタッフはそんなこと関係なく盛り上がっていましたね。







