~映画批評~

【マイ・フェイバリット・カット】第1回:北小路隆志『未知との遭遇』

気鋭の作り手・書き手が偏愛する映画の最愛の場面を語り尽くすこのコーナー。『未知との遭遇』のマザーシップ降臨に、なぜ僕ら観客はこうも恍惚としてしまうのか?

文:北小路隆志

2008-10-10 UP

未知との遭遇 たとえば彼の実質的デビュー作『激突』についていえば、荒野を縦断するハイウェイに出現する巨大トラックが主人公の車を追い回す内に次第に凶暴さをあらわにするなか、スピルバーグの演出の妙はそのトラックの運転手をついに一度たりとも画面に映し出されずにおく点にあるとされた。あるいは『ジョーズ』にしても、その魅力は人食い巨大鮫をぎりぎりの時点まで可視化することなく物語を推移させる監督の手腕にあるのだ……と。 そうした論者にとってスピルバーグの堕落(?)は、『未知との遭遇』のエンディングでエイリアンを画面に登場させたことに始まる。全編にわたって”醜悪な” エイリアンが子供と戯れる『ET』ともなれば何をかいわんや……ということだろう。思うにこうした批評の根拠は、過度に可視性に依存することのない繊細な演出で特徴づけられる古典的映画が諸々の理由から崩壊し、あらゆるものを可視化せずにおかない映像のインフレーション状態が映画の定型を破壊した……との、それ自体はおそらく正確な映画史の分水嶺を巡る認識にある。当初、古典的映画の擁護者にとっても将来有望な若者と見られたスピルバーグが、その期待を裏切り、あらゆるものの可視化を押し進める陣営の急先鋒となったと批判されたのだ。

 だけど本当にそうなのか? なるほど『未知との遭遇』で目まぐるしく飛び交うUFO群は当時の特殊効果技術の先端だったし、そのイメージの新奇さに僕らが興奮していた事実を否定するつもりもない。だけど僕にとってスピルバーグ作品の魅力は、それが可視化されようが不可視のままであろうが、何かを一心に見つめ、魅入られる存在への共感の眼差しにこそある。鮫が見えようが見えまいが『ジョーズ』の登場人物らは一様に海を見つめる姿勢をとり、また皮肉にも全てが見えてしまう全面可視化の苦行に晒された『マイノリティ・リポート』の予見者たちはその眼差しの先に見たくもない何かを見てしまう。むろんそこで何が見えるかが物語の鍵を握るとしても、それはたかだか操作可能なただの映像にすぎず、僕らはその何かを見てしまう存在の瞳のあり方に魅入られるのだ。

 何かを見る存在に憑かれた映画作家としてのスピルバーグ……。それが何を意味するかについて、問題の(?)『未知との遭遇』ラスト近くでのマザーシップ降臨の場面を例に考えてみよう。

 辺りが暗闇に包まれる頃、巨大な岩山の麓に設けられた施設で関係者一同がまるでショーの開幕を前にするかのような風情で興奮を抑えきれずに待ち受けるなか、ついにUFOが不可視の領域を突き破り次々と飛来する。歓声やどよめき、湧き起こる拍手。そして真打ち登場とばかりに誰しも想像だにしなかった巨大なマザーシップの降臨……。繰り返すが、ここで可視化される未知なるものが僕らの驚きを誘ったのは確かだ。だけど僕らがこの場面に感動したのは、そこで可視化される映像の輝きゆえだけではない。そうではなく、眩いばかりの光の横溢に魅了され、ほとんど恍惚状態に陥るかのような顔の数々にむしろ僕らは胸をときめかしたのだ。こうして、何かを一心に見つめ、それに魅入られる存在とは、要するに映画を見る観客ではないか……と僕らは気づかされる。たまたまUFOに遭遇して以降、半ば正気を失ったかのように”見ること”に憑かれた主人公も含め、それぞれ全く別の環境で暮らす彼/彼女らはやがて訪れるであろう光の顕現を信じる姿勢においてのみ共通点を持ち、どこか秘密結社めいたシンジケートを形成しつつ共に光に魅入られる……。だから『未知との遭遇』は、できれば映画館の大きなスクリーンを前に見ず知らずの人たちとの間で結成され、映画が終われば無言でそれぞれ家路につく2時間だけの共同体のも とで見ることが望ましい。スピルバーグは見ることを介して束の間だけ形成される映画観客の共同性を称える映画作家なのだ。

『未知との遭遇』

1977年アメリカ/監督・脚本:スティーブン・スピルバーグ/出演:リチャード・ドレイファス、フランソワ・トリュフォー、テリー・ガー