
伝えたい物語、素材の切実さ、そこに浮上する強みを存分に引き出したのが審査員特別賞を分けた『木のない山』(写真3)と『サバイバル・ソング』(写真4)だ。在米韓国人監督ソヨン・キムの「自伝ではないがパーソナルな経験」を基にした前者は、親類をたらいまわしにされながら母の帰りを待つ幼い姉妹が、それでも生きていく様を追う。どこまでも自然な少女たちの表情をドキュメンタリーであるかのように掬いながら(是枝裕和監督作『誰も知らない』との比較が出るのも納得できる)、超クロースアップの世界を編んでいた映画は、気づいてみると姉妹が祖母の下で漸く安心と温かさとを得る頃に、引きのキャメラが切りとる田園風景をさりげなく溶け込ませてもいる。そうやって世界に向けて開かれていく心の物語をみごとにあっけなく浮上させる。その物語り術の真正さ、ごまかしのなさ、単純さの繊細さ! いっぽう被写体の生活に密着し、観察者に徹してドキュメンタリーの王道を行く『サバイバル・ソング』(監督ユー・グァンイー)。中国黒龍江省長白山脈の猟師たちが貯水池建設による立ち退きを迫られる過程を背景に、とある夫婦に雇われた男の毎日を綴る映画は彼が腹ばいになって女主人を窃視する様も裁かずただみつめ続ける。フィルムでなくヴィデオで記録することで日常の索漠とした感触がいっそう際立つ中で、作ろうとしても作れない生のドラマが解け出す。辺境をめぐる見る側の偏見に盾突くように件の男がいきなりディスコ・キングと化しダンスに興じる様を差し出したりもする。その姿もただただ見つめることで記録は詩の時空へと踏み入っていく。凝視の姿勢を貫く映画がもぎとる日々の、人の物語。その凄みは変わる中国の現実の縁にせりあがるフィクションの色を再度、確認させずにはいない。


北京に暮らす3組の人々に降りかかる生の重さを、各挿話に伝統料理をからめて描く『黄瓜(きゅうり)』(監督チョウ・ヤオウー)が、意欲的仕掛けを些か空回りさせながらも興味深い瞬間を捉えてみせるのも、変わりゆく国と社会の現実の強かな物語を芯にしているからだろう。同作がロケの映画の魅力、街の物語を記録していく様は、都市が舞台のカザフスタン映画『ヘアカット』(監督アバン・クルバイ)、さらには特集上映された蔵原惟繕監督の切りとった50年代末の東京、J・P・アンドラーデ監督の短編『キャットスキン』のリオ、そうして往時の日活映画ともシネマ・ノーヴォとも結ばれたヌーヴェルヴァーグの時空を髣髴とさせ、そこにもあったまた別の虚実の境界、その美しい実りのことを思わせる。そういえばと想起されるのがパリで撮ったホン・サンスの新作『夜と昼』(*特別招待作品)。しばしば引き合いに出されるロメール(初期の短編に登場するカフェの名を冠したようなタイトル、舗道沿いに流れる水と包装紙ならぬ犬の糞)に軽く目配せしつつ監督は相変わらずな男と女のシリアス・コメディを涼しい顔で展開する。虚実の拮抗を反復の構造に取り込む様式への意識の尖りは今回、抑制されているものの地続きの夢と現実を軽やかに差し出す手際の先にはやはり、映画で物語することに向けた一筋縄ではいかない覚悟が見え隠れする。ダルジャン・オミルバエフの快作『ショーガ』(写真5)もまた夢と現実の境をさっさと超えてしまう。ことわりなしの叙述のスタイルはトルストイの大著「アンナ・カレーニナ」を骨と皮にまでひんむいて心理もことの次第も捨て去りながらたった三つの瞬きのうちに恋の目覚めを刻みつけるミニマリストの粋をみせつけ圧巻だ。ブレッソンの名をもちだすよりは自死するヒロインの悲恋を尻目に彼女のいる新興富裕階級の軽薄をみつめ、変動する現代の物語を語ろうとする監督の伝えたいことの力にこそ見惚れたい。ここにある力は挫折と夢とが鬱屈の中で出会うダメダメカップルのだめさ加減を好ましさに媚びずに描き切る熊切和嘉監督作『ノン子36歳(家事手伝い)』にも、男女5人の緊密な会話劇を論理できちんと位置づけて感性や感覚だけの若者映画と一線を画す新鋭濱口竜介監督『PASSION』にも備わった世界への眼差しとも結ばれていく筈だ。私と世界、他者との境界、違いをみつめて始まる現実という物語。それを現代映画を支える基準として照射したことが今年のフィルメックスのもうひとつの大きな収穫だったと思う。
第9回東京フィルメックス
2008年11月22日〜30日
公式サイト http://www.filmex.net







