~国内外の映画祭レポートなど~

映画祭が伝える、今という物語——第9回東京フィルメックス総論

2008年の東京フィルメックスから見えてくる「映画の今」とは? アジアの個性豊かな新進作家によるコンペティション部門を中心に、各作品が捉える現実を照らし合わせながら、映画祭の行方を探ります。(川口敦子)

文 | 川口敦子

2008-12-17 UP

東京フィルメックス

国際映画祭の多くがハリウッドを中心とする大作の先行上映大会化する昨今、東京フィルメックスは世界にまだある映画の素敵や埋もれた一本の驚きを辛抱強く探り続けてきた。いわゆるアート系映画の居場所が日に日に奪われる中で、作家主義を掲げ、一期一会となるかもしれない撮り手の映画を敢然と擁護してきた。9回目を迎えた今年の9日間も然りだった。これを見たからにはどうにかして公開の場をと願うこと、なんとかしようと奮い立つことを観客ひとりひとりに要請する健全な場があった。コンペティション部門を中心にドキュメンタリーとフィクション、記録と虚構の境界を睨んでそこに果敢に切り込む試みを断行する映画が集まった事実も見逃せない。映画の今を映すそんな傾向を確認し得るのもこの映画祭ならではのスリルだろう。

フィルメックス総論

昨年のフィルメックスで記録と物語の領域の鮮やかな往還を印象づけたジャ・ジャンクー監督作『無用』と『東』。ドキュメンタリーと劇映画を線引きする虚しさを改めて思い知らせた両作では積極的なジャンルの越境が中国の歴史的現在、その現実に巣食う虚構を物語ろうとする監督の主題を射抜く強かな術となっていた。試みの意志を継承するようにジャンクーが製作に加わった『完美生活』(写真1/監督エミリー・タン)も、ドキュメンタリー(仕立て)と劇映画の二重構造でふたりのヒロインの軌跡を追う。異なる手法で切り取られるふたりの歩みがやがて激変する中国・香港の現在に生き、交差する無数のヒロインたちの歩み、その過去と未来とみえてくる。かたやベイルートを訪れたカトリーヌ・ドヌーヴ(役を本人が演じる)が戦禍の残る国境地帯を見たいと言って始まる『私は見たい』(監督ジョアナ・ハジトゥーマ+カリル・ジョレイジュイ)の車の旅。ドキュメンタリーのように撮り生起するドラマを操る一作は『そして人生はつづく』等々のキアロスタミ映画を少し思わせもする。辿りだしたら映画の歴史をどこまでも遡れる記録と創作、虚実の二極。それが手法と主題の境界さえもじぐざくにしながらまたいっそう踵を接する昨今の傾向とは――と問を反芻する中で、最優秀作品賞に選ばれた『バシールとワルツを』(写真2/03監督アリ・フォルマン)は、ドキュメンタリーをアニメーションにする発想を光らせる。

フィルメックス総論

1982年第一次レバノン侵攻時、イスラエル軍兵士として難民虐殺事件を掻い潜った監督自身の失われた記憶を探るため、多くの元兵士に取材した記録を実写で提出する代わりに採用されたアニメ化。インタビュー場面を列ねる証言ドキュメンタリーでなく様式化を強いられる旧式のアニメ技法を択ることで映画は、生々しすぎる事実に迫る迂回の経路を獲得する。実写では陳腐になりかねない記憶、悪夢と現実、その交錯を自由に、自在に、しかもリアルに描き得るメディア固有の利点をポジティブに活かした知恵も見逃せない。『リダクテッド真実の価値』でデパルマが様々なフォーマットの記録映像をリアルに模造し擬似ドキュメンタリーというフィクションとして監督の、物語の語り手の矜持をみせたこと。そんな先達の活路の見出し方とも通じるフォルマンの虚実の境界との向き合い方はしかし、繰り返せば切実に語りたいこと、伝えたいことがあってこその手法に他ならない。


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